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勝共運動による救国救世

人間疎外論の克服その4

疎外の解決策を誤り暴力と独裁を正当化
闘争を法則化とすることで暴力が正当化され、プロレタリアート独裁論によって最終的には個人独裁に至る誤りを犯した

マルクスは人間疎外(類的存在の疎外)の本質把握を誤り、その本質を労働生産物の疎外と見たために、疎外された人間性の回復(類的存在の奪還)は必然的に私有財産の廃止となり、ひいては生産手段の社会化、利潤の社会的所有となったのです。
 それを平和的な方法でなすべきか、暴力(闘争)的な方法でなすべきか、そのいずれかの選択が迫られたとき、彼は暴力的な方法を選びました。なぜなら平和的な方法で改革をなそうとしたすべての試み(例えば英国やフランスの空想的社会主義運動)が失敗したのを目の当たりに見ていたからです。その上、彼自身、闘争的性格の持ち主でもあったからです。
 闘争の方法には哲学的支えが必要です。その必要性に応じて適用した哲学が、巣で見ましたように唯物弁証法です。彼はヘーゲルの観念弁証法から観念的要素を除去し、弁証法のみを借用し、それを唯物論と結び付け、いわば観念弁証法をひっくり返して唯物弁証法を作り上げました。

無視したキリスト教精神

マルクスが人間把握の本質把握を誤ったばかりか、資本主義社会の性格把握においても誤りました。それは彼が形状面である経済的側面のみを問題視し、政治的・宗教的側面は経済の派生物ないし付属物のように軽視したことです。
 そのため資本主義の政治理念である民主主義と、資本主義の価値観の基盤となっていたキリスト教(新教)が資本主義経済の発展にいかに貢献したか、このことを彼は悟ることができなかったのです。
 マルクスが英国、フランス、米国のような先進資本主義国家でまず革命が起こると予言したにもかかわらず、これらの国において革命は起こらないまま、今日まで紆余曲折があるとはいえ比較的健全に経済が成長してきたことは周知のとおりです。
 それは、キリスト教の価値観に支えられた民主主義理念が無意識の中に、さまざまな次元の授受作用を通じて経済的な矛盾と欠陥を不完全ながらも漸次的に改善してきたからといえるでしょう。
 例えば、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)でつぶさに見た、英国の労働者の悲惨な暮らしは、資本家らの「良心」(キリスト教精神)によって次第に改善されていきます。1847年には公衆衛生法が制定され、労働者の劣悪な環境は著しく改善されました。1850年代から70年初めにかけては好景気に沸き、それに伴って貸金も上昇しました。90年代の実質賃金は50年代に比べて二倍増になったとされます。さらにその後、労使がお互いに協調し合い、非人道的な社会を変革していったのです。
 また英国では1860年代から80年代にかけて選挙制度が相次いで改革され、19世紀後半には労働者の主張を糾合した自由党がしばしば政権の座に就くようになりました。そして1900年にはついに労働者の政党である労働党が結成されるに至りました。このような変革が資本主義社会では可能だったのです。

闘争が真理になる悲劇

唯物弁証法でつぶさに検証したように、この思想の要点は自然界の発展であろうが社会の発展であろうが、発展はすべて事物または社会の内部の対立物の闘争によってなされるとしたことです。この唯物弁証法を基盤にすることによってマルクスは大きな誤謬を犯したのです。
 社会変革において、必ずしも闘争が悪いというのではありません。悪と闘って良き社会を作った例は枚挙にありません。しかし「発展のための闘争」を哲学的に正当化し、法則化させたところに大きな問題があるのです。なぜなら法則というのは、いつどこにおいても妥当なものであるために、闘争を法則化させておけば、目的が正当であるとされれば、いかに殺戮と破壊を伴う闘争であっても、その行為が正当化されてしまうからです。
 その上、目的が正当か否かは、指導者の主観にかかっているため指導的地位が高いほど恣意的な目標を立てて、いかなる蛮行でも敢行することができ、良心の呵責を受けないようになります。その結果、プロレタリアート革命の名の下に、いかなる悪も善に変えられてしまいます。それがレーニン以来の共産主義国の歴史と言っても過言ではありません。
 闘争の法則化は、闘争の質の悪化だけでなく、闘争の量の無制限化を招きます。マルクスが必要とした闘争は、本当のところは資本主義を打倒する暴力革命だけでしたが、彼が闘争を自然界と社会の発展を支配する法則として定めてしまったために、革命が成功した後においても、闘争は社会発展のために不可避なものとなりました。
 したがって、いつでも、どこでも必要となれば闘争が起きてよいことになってしまったのです。毛沢東による文化大革命はその典型例でしょう。
 ミコバン・ジラス(元ユーゴスラビア副大統領)は「それまでの革命家たちの言葉では、暴力は必要悪にすぎず、目的達成のための手段にほかならなかった。ところが、共産主義者の言葉では、暴力は崇拝すべきもの、究極の目的という至高の地位へおしあげられたのである」(『新しい階級』)と証言しています。

個人独裁の恐怖政治に

人間疎外の問題解決の方法として唯物弁証法を樹立し、闘争を法則化することにより、返って人間疎外を深めましたが、その唯物弁証法による闘争の合理化をさらに徹底させたのがプロレタリアート独裁論です。これによってマルクスの当初の目標であった「人間解放としての共産主義」は、全く逆の方向へと決定的に進んだのです。
 マルクスは資本主義から社会主義への過度期にはプロレタリアートの独裁が行われなくてはならないと言いました。レーニンはこれがマルクス主義の本質だとし、「プロレタリアートの独裁のうちに、まさにマルクス学説の本質があることは、周知のとおりである」(『プロレタリア革命と背教者カウツキー』「マルクス主義を階級闘争の学説にかぎることは、マルクス主義を切りちぢめ、歪曲し、それをブルジョアジーにも受けいれられるものにしてしまうことを意味する。階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認に拡張する人だけが、マルクス主義者である」(『国家と革命』)と述べました。
 彼らはプロレタリアート独裁を「多数者の権力」とか「勤労者の切実な利益」を表していると言いますが、実際には社会主義社会を実現するためにはプロレタリアートの前衛としての共産党が必要であり、党が遅れた部分─勤労者や農民─を指導しなければならないとします。それゆえ、プロレタリアート独裁とは「共産党の独裁」ということになるのです。
 さらにレーニンは、プロレタリアートの「独裁」とは「なにものにも制限されない、どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接暴力に依拠する権力」以外のなにものでもないと主張しました(『レーニン全集』)。
 しかるにその一方で、プロレタリアートの独裁は、同時にプロレタリア民主主義であって、「プロレタリア民主主義は、あらゆるブルジョア民主主義よりも百万倍も民主主義的である」(『プロレタリア革命と背教者カウツキー』)と、レーニンは言い張ったのです。
 またプロレタリアートの独裁は「搾取する少数者[ブルジョアジー]に対する搾取とされる多数者[プロレタリアート]の独裁」であるとされましたが、革命でブルジョアジーが打倒された後に独裁は、実際はブルジョアジーに対するプロレタリアートの独裁ではなくて、プロレタリアート(ブルジョアジーも労働者にされた)に対する共産党の独裁となってしまったのです。
 そしてその次は、プロレタリアートの指導者としての党が現われたのと同様の成り行きで、党の指導者としての個人が現われて、ついにはプロレタリアートに対する個人の独裁が行われるようになったのです。
 こうして社会主義国は個人独裁と化し、「人間解放としての共産主義」は、実際は「抑
圧と恐怖の共産主義」となったのです。

トロツキーの「予言」

 レフ・トロツキー(1879~1940年)はロシア革命の最大の功労者だが、共産党の一党独裁がいずれ個人独裁となって恐怖社会をもたらすと「予言」した。レーニンが『何をなすべきか』(1902年)を著し職業革命家組織の必要性を強調したとき、彼はこう言った。「党内政治においては、この方法(前衛党論)は、やがてはわれわれが目にすることになるであろうように、次の結果をもたらすことになる。まず最初に党の組織が、全体としての党を代行する。ついで中央委員会が党の組織を代行する。最後にはひとりの『独裁者』が中央委員会を代行する」と。
 トロツキーによれば、レーニンの前衛党論はフランス革命で恐怖政治をしき粛清を繰り広げたロペスピエールの考えそのものであり、ジャコバン党特有に政治至上主義に陥り、労働者階級が政治的活動を行う潜在的能力を見放している。トロツキーは労働者階級を教育する組織、動員する組織を想定したが、レーニンはマルクスの教えに従って命令する組織を作ろうとした。トロツキーは、そのレーニンの申し子である「独裁者スターリン」によって国を追われ、独裁者の命令を受けた暗殺者によってメキシコで世を去り、身をもって独裁の恐怖を示した。

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