共産主義は間違っている!
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勝共運動による救国救世

マルクス主義認識論その4

反映論では認識は成立せず
革命だけの党派的な認識と実践によって共産国の悲劇をもたらす
認識のための基本条件

統一認識論を踏まえマルクス主義の認識論を見てみましょう。
 マルクス主義は脳の産物(機能)である精神(意識)に外界が反映することが認識であると主張します。精神が脳の産物あるいは脳の機能であるという見解の誤謬は既に共産主義唯物論批判で紹介しました。ここでは脳の産物(機能)である意識が外界を反映するという見解を批判します。はたしてマルクス主義が主張するように、意識が外界を反映するだけで認識は可能なのでしょうか。
 統一認識論でみましたように、いくら外界が意識に反映したとしても、判断の基準(尺度)として、認識主体の中に外界に対応する原型がなければ、認識は成立しえません。また意識自体が照合の能力、判断の能力をもっていなくては、認識は成立しえません。さらに認識は主体と対象の授受作用によってなされるものですから、主体が対象に関心をもつことが必要です。外界の対象が主体の意識に反映したとしても、主体が対象に関心をもっていなければ認識は成立しえないのです。
 すなわち反映というような受動的な物質的過程だけでは認識は成立せず、積極的な心的過程(対象への関心や照合の機能)が関与することによって、初めて認識は可能となるのです。
 次にマルクス主義では、認識過程は感性的認識、理性的認識(論理的認識)、そして実践(革命的実践)の三段階によるとしました。マルクス主義における理性的認識とは、統一認識論における悟性的認識と理性的認識を合わせたようなものと捉えてよいでしょう。
 ここでまず問題となるのは、脳髄の産物あるいは機能であり、また客観的実在を反映するとされている意識が、いかにして論理的な認識(抽象、判断、推理など)を行いうるか、さらにいかにして実践を指令しうるかということです。
 外界を反映する受動的過程と、論理的な認識や能動的な実践の過程との間には、あまりにも大きなギャップがあります。にもかかわらず、これについて何ら合理的な説明がなされていません。論理的に飛躍しているのです。
 統一思想から見れば、論理的な認識や実践は脳髄における生理的過程のみでは決してなされません。認識作用は心(精神)と脳髄の授受作用によってなされるものだからです。すなわち論理的な認識や実践は初めから悟性と理性の働きを持った心が、脳髄と授受作用することによってなされるものなのです。

喜びのための認識と実践

次に認識における実践の役割についてみましょう。レーニンは、認識は実践へ移行すると言い、毛沢東は認識と実践の不可分性を主張しました。この点について統一思想は何ら異論もありません。
 万物は人間の喜びの対象として創造されたのであり、人間は創造目的を従って万物を主管(すなわち実践)するようになっています。それゆえに人間は喜びや主管のために万物を認識するのです。認識と実践は人間と万物の授受作用の相対的な回路をなしているのであり、実践(主管)を離れた認識はなく、認識を離れた実践(主管)もないのです。
 しかしながらマルクス主義の主張する実践とは、最終的には革命を目指すものです。
 それに対して統一認識論は、認識も実践も、革命を目的としてなされるものでは決してなく、創造目的の実現のためになされるものであると主張します。創造目的の実現とは、対象を愛することによって、対象を喜ばせながら、主体も喜ぶような世界の実現のことです。
 つまり創造目的の実現とは、神の被造物(特に人間)を愛することによって喜びを得、人間は神と人(他人)を愛し、また万物を愛で主管することによって喜びを得るような世界の具現のことです。認識も実践も、愛によって自他の喜びを実現するために行われるべきものなのです。

絶対的真理とは何か

レーニンと毛沢東は、絶対的真理の存在を承認し、人間は認識と実践を繰り返すことによって絶対的真理に限りなく近づくと言いました。しかし彼らの言う絶対的真理における「絶対」の概念が曖昧です。レーニンは相対的心理の総和が絶対的真理であると言います。しかし相対的真理をいくら総和しても、それは総合された相対的真理であるのみであって、絶対的な真理とはなりえません。
 絶対とは普遍的かつ永遠のものでなければならないからです。絶対的真理とは、時間と空間を超越した普遍的永遠的な真理のことをいうのです。したがって絶対者を基準としなければ絶対の概念が成立しません。統一思想から見れば、絶対的真理とは絶対者(神)の真理であり、人間が神の心情と一つとなったとき、人間の価値観は神の価値観と一つになり、絶対的価値が得られると考えます。このことなくしていくら実践しても絶対的真理が得られるわけがないのです。
 またマルクス主義は、実践あるいは実験によって事物の「物自体」も認識可能であるとして、カントの不可知論を批判しました。この点は統一思想も肯定します。しかし、マルクス主義は、なぜ実践によって「物自体」が認識可能なのか、明らかにしていません。
 それに対して統一思想は、認識主体(人間)の性相と形状と、対象(万物)の性相と形状が相似性をなしているということ、人間は万物の総合実体相であり、万物の主管主であるということ、事物の「物自体」とは事物の性相にほかならないということ、また形状を通じて性相が現われるのであり、したがって形状は性相の現象形態であること、などの事実によって、実践によって「物自体」の認識が可能であると主張します。
 人間と万物が主体と対象の関係において相似性をなしていることが、哲学的に保証されていなければ、人間がいくら実践したとしても万物を完全に認識できるとはいえないのです。そういう意味でもマルクス主義は間違っているといわざるをえません。
 マルクス主義認識論にもとづく革命だけの党派的な認識と実践によって、「革命と戦争の世紀」と呼ばれた二十世紀の数々の悲劇を生みだしたのです。このことを改めて確認しておきたいものです。
 以上で、マルクス主義認識論の批判と代案を終わり、次回から最終章となるマルクスの人間疎外論の批判と代案に入ります。

必然性と人間の自由

 マルクス主義は自然および社会の諸法則を十分に認識することによって自由が得られると主張した。しかし自然の諸法則はともかく、社会の諸法則の場合は従来、法則と自由は二律背反的な関係とされた。法則に従えば自由が拘束され、自由を追求すれば法則が無視される。したがって法則を知ることによって自由が得られると主張するなら、両者がいかにして両立しうるか説明しなければならない。だが、マルクス主義は語らない。法則を発見し革命を起こしたとする共産国で逆に自由は奪われてしまった。
 統一思想から見ると、真の自由は原理を離れてはあり得ない。自由は原理を通じて初めて実現される。ここで言う原理とは自然界の諸法則だけでなく、人間社会の倫理法則、東洋的に言えば天道である。これらは愛(心情)を基盤として作用するので、原理に従うとき愛が実現され自由が得られる。本来、自由とは愛を実現するための自由なのである。神はロゴスによって宇宙を創造されたが、ロゴスとは心情を中心とした理性と法則の統一体(理法)のことで、したがって理性の本質は自由であり、法則(原理)に従うとき自由が現われるのである。

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