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唯物史観その3

生産力の発展は欲望に起因
[キーポイント]

物質生活を全ての基礎に据える唯物史観は、生産力の不断の発展こそが社会発展の原動力となっているといいます。これが唯物史観の第一の法則です。ところで弁証法的唯物論によれば、発展は闘争によるとしていますから、生産力の発展も弁証法的に説明されるべきですが、実はこれができません。それは生産力の発展は欲望(精神)に起因しており、それを認めると唯物論が崩れるからです。唯物史観はその根本から崩壊しています。

その主張と批判

物質生活に必要な資料を生産することが歴史のすべての基礎、というのがマルクス主義の立場です。この生産する能力を生産力と呼びます。生産力は具体的には「労働力+生産用具」です(前回の用語解説参照)。
 人はパンがなければ生きていけないから生産力は止まることなく、不断に発展していく。これこそが歴史の原動力にほかならないとマルクス主義は断じます。ここが唯物史観のいわば骨になっています。生産力が不断に発展していくという大前提で唯物史観が成り立っているのです。
 後に説明しますが、唯物史観は生産力が不断に発展していくのに対して、生産関係(たとえば資本主義的生産関係=資本家と労働者)はそのまま固定化しようとする傾向があり、生産力の発展に対して生産関係が桎梏化する、つまり手かせ足かせとなる。そこで革命が必然的に起こるとします。また生産力の発展に照らし合わせて(照応)、生産関係がきまるとして、原始共産制から奴隷制、封建制、資本主義制を経て社会主義社会が到来するという革命必然論を展開します。
 このような唯物史観の大前提として生産力の発展があるのです。

では、どのようにして生産力は発展するのでしょうか。唯物弁証法の考え方は、対立物の闘争によって発展するというものです。生産力の発展もその公式で説明する必要があります。ところが、生産力の発展についてはどういうわけか、説明が曖昧模糊になってしまいます。たとえばマルクスは次のようにいいます。
「人間は、自然素材そのものにたいして、一つの自然力として相対する。彼は自然素材を、彼自身の生活のために使用しうる形態において獲得するために彼の身体のもっている自然力、すなわち腕や脚、頭や手を動かす。この運動により、彼の外にある自然に働きかけ、同時に彼は彼自身の自然を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜在力を発現させ、その諸力の活動を、彼自身の統御に服させる」(『資本論』)
 これは人間と自然を対立物ととらえ、人間が自然との不断の対決によって生産力を発展させてきたという意味に解釈できます。人間を「一つの自然力」とするなら人間は他の動物と本質的に何ら変わることがないはずですが、あらゆる動物が「一つの自然力」をもって「自然に働きかけている」のに、動物はどうして生産力を生み出すことができず、人間だけが生産力を発展させてきたのでしょうか。この説明がありません。

本来、唯物弁証法的に考えるならば、生産力それ事態の中に矛盾があって、その矛盾の闘争によって生産力が発展するとしなければなりません。とすると、労働力と生産用具が闘争しなければなりません。たとえば人間が鍬と闘争しなけばなりません。鍬と闘争すれば生産力が低下しても発展することはないでしょう。
 ところが、マルクスはこうしたことに触れず、人間が「潜在力を発現」させるというのです。潜在力というのは創造力のことであり、その原動力となっているのは欲望(精神的要因)にほかありません。欲望によって生産力が発展すると規定すると精神が主体となり、唯物論が崩れてしまいます。それでマルクスは曖昧模糊とした表現しかできなかったのでしょう。
 実はマルクスも人間の欲望によって生産力が発展することを認めているのです。たとえば―、
「生きるのに必要なのは何よりもまず食らうことと飲むこと、住むこと、着ること、そのほかなおいくつかのことである。したがって第一の歴史的行為はこれらの欲望をみたすための手段の産出、すなわち物質的生活そのものの生産である」(『ドイツ・イデオロギー』)といいます。ここではっきりと欲望をみたすために生産すると述べています。
 また…、
「生産では、社会の成員が自然生産物を人間の欲望に適合させる」(『経済学批判』)
「欲望がなくては生産はない。しかも消費は、欲望を再生産するのである」(同)
 と述べています。ここでも欲望が生産力を発展させてきたと告白しています。
 このようにマルクス自身も生産における人間の欲望の重要性を実はよく認めているのです。それにもかかわらず、「欲望によって生産力が発展した」とは絶対にいわないのです。その理由はすでに述べたように、精神(欲望)によって生産力が発展したことになって、唯物論自体が崩壊してしまうからです。それで彼らはあくまでも生産力の発展は物質的であり、弁証法的であると強弁しているのです。

こうした批判から逃れるためにソ連の哲学者イシチェンコは、生産力は生産力と生産関係の弁証法的相互作用によって発展すると、次のように述べています。
 「生産力の発展の原因は、これを労働過程の内的特性の中に求めなければならない。…いったん生産力が発生が発生すれば、それは内的弁証法によって発展する。生産力の発展の原因となるものは、内容と形式としての生産力と生産関係との弁証法的交互作用である」(『唯物弁証法事典』)
 しかし、これはおかしな論理です。マルクスによれば、まず生産力が発展し、その後に、その生産力の変化に依存し照応して生産関係が発展するとしていました。にもかかわらず、イシチェンコは生産力の発展が生産関係との関係によって発展するというのですから循環論法です。
 また唯物史観によれば、生産力の発展に対して生産関係はやがて固定化、桎梏化するとしています。生産力の発展の手かせ足かせになる生産関係がどうして生産力を発展させるというのでしょうか。ブレーキがアクセルになるわけがありません。

どう言い逃れようとしても生産力の発展は欲望によってもたらされるのです。生産力は「労働力+生産用具」であることはすでに述べましたが、人間の肉体的な労働力には限界がありますから、生産力の発展とは具体的には技術の発展といえます。たとえば鍬や鋤を使っていたのが、耕耘機やトラクターを使うようになって生産力が発展してきたわけです。
 このように耕耘機やトラクターを作る、創造する人間の創造力の発展が生産用具の発展をもたらし、生産力を発展させてきたのです。いいモノを作って生活をよくしたい、子供たちを幸福にさせたい、社会をよくしたいといった欲望が原動力となり、そして知識の発達、技術の蓄積がより一層の創造力の発展をもたらし、新たな生産用具が生み出されて生産力を発展させてきたのです。
 唯物論を根拠とする唯物史観は、その根底から崩れてしまっています。共産主義のみがプロレタリア革命を成し遂げる唯一の思想であることを合理化しようとしたものにすぎません。それこそ真理性を蔑ろにした党派性の所産というほかありません。

代 案
創造力

 統一思想からみると、人間と自然の授受作用によって生産力は発展する。人間と自然は敵対関係ではなく相対的関係をもって授受作用をする。その時、人間は単に一つの自然力としてではなく、動物の力とは本質的に異なる創造力をもつ人間として自然に働きかける。創造力は神から与えられたもので、創作力(芸術家)、技術力(技術者)、労働力(労働者)などさまざまな分野において発揮される。生産用具も技術力の体化物であるから、結局、生産力(労働力+生産用具)とは創造力の現れたものである。したがって生産力の発展とは創造力の発展のことである。

創造力の発展

 創造力は構想力と技術力の二つの力よりなる。前者は構想(設計図)を生みだす力であり、後者は技術をもってその構想を実現する力である。いずれにおいても知識を必要とするので、創造力の発展は必然的に知識の発展を伴う。知識の発展によって創造力が発展するといえる。

生産力の実際の発展

 生産力の実際の発展は主体的条件(発明欲、創造力、知識)と対象的条件(社会的・物質的条件)の授受作用によってもたらされる。たとえばワットによる蒸気機関の発明(による生産力の発展)は、ワットの発明欲や創造力、そして蓄積されてきた知識と、当時のイギリスのマニュファクチャアの発展などの経済的環境的条件が合致してなされたといえる。

資 料
マルクスが欲望を生産力発展の原因と述べた文献

 「未開人が、彼の欲望を充たすために、彼の生活を維持しまた再生産するために、自然と闘わねばならないように、文明人もそうせねばならず、しかも、いかなる社会形態においても、可能ないかなる生産様式のもとにおいても、そうせねばならない。文明人が発展するほど、この自然必然性の国は拡大される。諸欲望が拡大されるからである。しかし同時に、諸欲望を充たす生産諸力も拡大される」(『資本論』)

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